軍艦島へ。

 

軍艦島に行ってきました。

軍艦島は、横から見た姿が軍艦「土佐」に似ていることからそう呼ばれていますが、
本当の名前は「端島」という、当時この島は佐賀県の管理下にあり、
佐賀の中でいちばん端っこという意味からその名がついたそうです。

元々は今の敷地の半分ぐらいのサイズの島でしたが、
海底炭坑が見つかったため、三菱が島ごと買い取りました。
そして採掘するために炭鉱夫とその家族が移り住み、多いときは5,000人以上。
その人口密度は、当時の東京の約9倍、世界でもいちばん高かったそうです。

大正5年、社宅として、日本ではじめての高層コンクリート住宅が建設されました。
こんな小さな島なのに、大きな病院やパチンコ屋さんや小学校もありました。
通常、小学校は「市立」ですがここは「社立」だったとか。

何しろ狭い島ですから、子ども達が充分に遊べるようなグラウンドや
公園のようなものはほぼなかったに等しく、
屋上で野球をしたり、岸壁から飛び込んで遊んだりと、
遊び方にもひと工夫必要だったようです。

それに、この辺りは台風の影響を大いに受けており、
時には島全体を飲み込むような巨大な波が襲いかかったといいます。
最初は、おびえていた住民もそのうち大波見物をするように。
住居の各棟には渡り廊下が付けられ、傘を差さずに行き来することもできました。

火事が起こったら、マンション全体が全焼してしまうので、
独特の連帯意識があったのではないだろうかと想像できます。
(実際に火事は起こった)

そして、島民がいちばん胸を熱くした娯楽は、映画だったそうです。
東映の映画館があり、高倉健の作品などが放映されていました。
フィルムは、食料品などの物資と共に船で送られてきますが、
軍艦島は天候の影響を受けやすいので、やってきた船が
荷物を下ろすことができた確率は半分にも満たなかったそうです。
ですが、封切りの映画はみんなの最大の関心事ですから、
物資は下ろせなくとも、フィルムだけは船から手を伸ばしてでも渡していたとか。
東京の封切りよりも先に流されていたこともあったようです。

当時、三種の神器といわれた、エアコンやテレビ、冷蔵庫が
東京ではまだ10%ほどしか浸透していなかった時代に軍艦島ではほぼ100%。
どの家庭にもあったそうです。
当然、東京オリンピックはみんな悠々とテレビ観戦を楽しんだといいます。

ハードワークな分、暮らしは裕福だったようですが、
中でも上級社員の社宅は、島のてっぺんにあり、各部屋に風呂もありました。
同じく島のいちばん高いところには、島を守る神社がありましたが、
これも時代と共に風化して今では一部しか残っていませんでした。

風や波に晒され、日増しに風化していく建物たち。
私が訪れた前日や前月にも大きな台風が来て、
少しずつ壊れてしまったそうです。
ただ住居部分は原形をとどめているのに対し、
三菱の事業所があった部分はグチャグチャに壊れていました。
これは、閉山した後に間取りや機械の情報などが
産業スパイに盗まれないようにと機械で意図的に壊したのだそうです。

最初、とても無機質で滅んでしまった歴史の残骸を見るようで
少し怖くもあり、建築物を見るような気持ちで上陸しましたが、
島を離れる頃には、誰か大切な人のふるさとにおじゃましたような
あったかい気持ちで、そこにあった暮らしや笑顔を想うことができました。
本当に日々の雨風で形を変えています。桟橋が壊れたら上陸もできません。
そうなる前に、ひとりでも多くの方に見てほしいと思いました。

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